平和の塔(八女郡星野村)
平和の塔の由来
1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分。人類史上初めて、原子力爆弾が投下され、廃墟と化した広島の戦災の火が今もなお、星野村の地で燃え続けています。
星野村出身の山本さんは、当時広島から130キロメートルほど東にあった軍隊の野営地で任務についていました。その日は、山本さんは、任務により広島の近くの宇品というところに向かうため汽車に乗っていました。8時15分、突然大地を震わす途方もない大きな爆弾音が・・・。汽車は止まり、乗客は大混乱。原爆が落ちたのです。山本さんは素早く車外に飛び出し、通りかかったトラックに乗せてもらい、なんとか任務を果たすことができました。
そして、ふと我にかえった山本さんは広島市内に住む叔父の安否を調べるため市内に向かいましたが、近づくにつれ惨状は更にひどく、黒焦げの死体がそこかしこに転がり、断末魔のうめき声と助けを求める声が耳をつんざき、そこにはこの世のものとは思えぬ地獄絵が描き出され、一歩も進むことが出来ませんでした。戦争は終わり、半月後、山本さんにも復員命令が出ましたが、叔父のことが気に掛かかり再び広島市内へ戻りました。そして、叔父の死を知り、自慢の子を失った郷里の祖母のなげきを思いせめて遺品になるものを探しましたが廃墟と化した地には見つかりませんでした。そして、まだくすぶりつづけている地下倉庫に降りました。そして、そこに燃えつづけている小さな炎を発見し体の弱い孫の実を案じ祖母より贈られたカイロにそっと転火しました。こうして、広島の原爆の火は350キロメートル離れた星野村に運ばれ、それから火は仏壇に灯され、23年の間、雨の日も、風の日も家族みんなの手によって守りつづけられました。
そして、1968年8月6日全村民の要望で“平和を願う供養の火として永遠に灯し続けよう”と、村で引継ぎ「平和の塔」が建立されました。さらに、被爆50周年を迎えた1995年3月には平和の広場の整備を行い、「平和の塔」の再建立と福岡県原爆被害者団体協議会による「原爆死没者慰霊の碑」を同一の場所に建立して恒久平和を願っています。
福岡県内には、広島・長崎に次ぐ1万有余人の被爆者が住んでおり、その意味からも恒久平和への願いは絶えません。
出典:星野村発行「平和の塔」チラシより抜粋
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